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2018年10月 5日 (金)

1日デイサービスにいった。ファミリーヒストリー「デヴィ夫人~運命の関ヶ原 クーデターでの決断~」を見た。

ウェルネスリンク  歩数ランキング: 
最近1週間の平均歩数:歩  目標達成:0/7 日  週間Ex量:0.0 Ex
今日は歩数計1261
家の中を往復20回(7m*2=14m?)*0=0回(14*20*6=2800m?)
歩くときのストップウォッチで速度をはかる。いまの私は健康な人の約6倍もおそい。私が歩くのは右足の筋肉と便秘改善と頭の体操です。往復20回で歩数計は約2000歩数になる。
①分48秒 ②分48秒  ③分13秒④分04秒⑤分09秒
⑥分06秒⑦分20秒⑧分03秒⑨分22秒
インテレクトEMSポータブルを右肩の骨(行三角筋前部繊維)と
右足の腰骨と大転子の間にパッドを貼りダイアルを下に回し電源を
入れて目安は3-4程度 20分*2回
ハディマッサージャー ハンディバイブ(一般家庭向け電気マッサージ器)を
右手にする。振動刺激で筋肉の緊張をやわらげる。歩くときに悪い右足にできるだけ重心をかけるようにして右足を前に出すときに杖も前に出す。
1日デイサービスにいった。
朝の会・脳トレ答え・入浴・食事・体操・歌の会・おやつ・帰りの会
ファミリーヒストリー「デヴィ夫人~運命の関ヶ原 クーデターでの決断~」

現在78歳となったデヴィ夫人。番組で共演している出川哲朗は、「夫人の場合はルーツを探っても今の夫人を超えられない。それくらいすごい人」などと話した。デヴィ夫人は自らのルーツをほとんど知らず、ずっと気になっていたという。デヴィ夫人のルーツを調査すると、浮かび上がってきたのは父方・根本家の意外なルーツ。戦前、東京・麻布の小さな借家で暮らし、体を壊した父に代わってデヴィ夫人の母は内職で生計を立てた。デヴィ夫人は17歳の時、家族を支えるためホステスの世界に飛び込んだ。
デヴィ夫人は「楽しみやら怖いやら。自分の先祖は誰だったのかというのは気になる」などと話した。
キーワード
デヴィ夫人は昭和15年、西麻布にあった借家で生まれた。元の名前は根本七保子。15歳で父を亡くしたため、父方・根本家のルーツを知らない。父の戸籍によると、根本家はもともと茨城・平磯で暮らしていた。今も本家を守る根本志津雄さんと知明さん。デヴィ夫人と面識はないという。江戸時代の終わり、デヴィ夫人の曽祖父の兵吉は、地元のカツオ漁を取り仕切る総代だった。根本家は江戸時代の始めにはすでに平磯で漁師をしていた。平磯には根本姓が多く、先祖が同じではないかと言われている。根本氏は、室町時代から佐竹家に仕える有力武士だった。
根本氏の領地だったという常陸太田市。「根本鎮座」と書かれた石碑が建てられていた。根本氏の館があったことを表しているという。しかし関ヶ原の戦いで状況は一変。佐竹氏は中立の立場に立ったことで家康の怒りを買い、国替えさせられ石高も減らされる。その結果、多くの家臣たちが武士を辞めざるをえなくなった。根本氏は海沿いの平磯に移り住み、漁師になった。しかし明治43年、平磯沖で嵐による海難事故が起きると、この時漁に出ていたデヴィ夫人の祖父の兵三郎は船を失った。
事故をきっかけに漁師を辞めた根本家。かつお節や塩辛などを作る海産物店を始めた。60年ほど前まで営業していた店先には、今も屋号が残っている。そんな根本家の次男として生まれたのが、デヴィ夫人の父・兵七だった。地元の小学校を卒業すると、次男だったため家業は継がずに船大工になった。大正10年、25歳になった兵七は地元出身のはると結婚する。しかし2年後、関東大震災で魚の価格が急落すると廃業する漁師が相次ぎ、船大工だった兵七の仕事も減っていった。家族を支えるため、兵七は麻布へと移り住んだ。震災後、近くにあった歩兵第三連隊の兵舎を建て替えるため、全国各地から大工が集まっていたという。そして上京して5年後の昭和7年、子どもが増えたため兵七は近所に2階建ての家を借りた。家賃収入のため2階を間貸しすると、後にデヴィ夫人の母となる笠原まさが入居した。
デヴィ夫人は根本家のルーツについて、「父も知らなかったと思う。根本という名前の方たちが1か所にたくさんいるということは聞いていた」などと話した。
部屋を借りたいと根本家を訪ねてきた笠原まさ。笠原家の本家は千葉・睦沢にあり、今も1万坪以上の土地を持つ大きな農家だった。デヴィ夫人の祖父の房治は、農家をしながら地域のまとめ役でもあった。明治29年、村議会議員を務める房治の長女として生まれたのが、デヴィ夫人の母・まさだった。しかしまさは10歳の時、実を取ろうとして登った庭の柿の木から落ちて大怪我を負う。手術には成功したものの、右足に重い障害が残った。足が不自由だったため、尋常高等小学校も辞めざるを得なかった。その後、裁縫などの家事を手伝ってひっそり暮らした。
成長すると美人として評判になったまさ。19歳になるとある男性と結ばれ、女の子を出産した。しかし1か月後にその子どもは亡くなり、男性とも別れることになった。さらに30歳になると別の男性と暮らし始めて男の子を出産するが、この子もわずか2か月で亡くなってしまった。この男性とも後に別れてしまう。傷心のまさは1人で暮らし、裁縫で生計を立てた。そして昭和10年、40歳の時に仕事を求めて麻布にやって来た。足が不自由だったまさは麻布の職場近くで部屋を探し、兵七のいる根本家にたどり着いた。兵七はすぐに部屋を貸し出した。まさが暮らし始めて半年ほど経ったころ、兵七の妻・はるが死去。残されたのは兵七と一番下はまだ1歳の5人の子ども。まさは根本家の家事や育児を手伝うようになった。はるが亡くなって3年後、兵七は親戚から進められてまさと結婚した。結婚してまもなく、七保子(デヴィ夫人)が誕生。翌年、8番目の子どもの八曾男も生まれた。
太平洋戦争が勃発。食料が配給制になると、食べ物の確保が難しくなった。まさは不自由な足で千葉の実家へ行き、子どもたちのために米や野菜を分けてもらった。昭和19年、戦況が悪化すると歩兵第三連隊のあった麻布は連日空襲に遭う。走ることが難しいまさにとっては、防空壕への避難は大きな負担だった。間もなくまさは、幼い七保子と八曾男を連れて福島・浪江に疎開した。しかし半年後の8月9日、浪江はまさかの空襲に見舞われた。まさは七保子と八曾男を連れて必死に避難したが、ようやく到達した避難場所はすでに住民であふれていた。まさは土下座して防空壕に入れてもらったという。それからしばらくして、まさは七保子と八曾男を連れて東京に戻った。
デヴィ夫人は「座敷でみんなが頭を垂れていて仙台が空襲された話を聞いたことを覚えている。浪江の人たちには仙台がやられたことはショックだった」などと話した。
昭和20年、まさ達がもどった根本家。麻布一体は空襲で焼け野原になっていたが、暮らしていた借家は奇跡的に無事だった。戦後の復興が進むに連れ、大工の兵七の仕事は忙しくなった。しかし兵七は、戦時中に闇で出回っていたメチルアルコールの混ざった酒を飲んだことで目が悪くなり、仕事ができなくなってしまった。働けなくなった夫に代わり、まさが家計を支えた。昭和21年、七保子は地元の笄小学校に入学。貧しい環境の中で育った七保子は、どんな困難があっても決して負けない芯の強い少女になっていった。当時、七保子は休み時間に絵を描くことに熱中していた。中学生になるとその美貌に注目が集まり、中学3年になると進路の選択を迫られる。この時、七保子は迷うことなく働きながら定時制高校に通う道を選んだ。
七保子は京橋にあった千代田生命保険で事務の仕事に就いた。それに加え、昼休みや休日には喫茶店でアルバイトをした。さらに稼ぐため、芸能事務所に所属し映画やテレビにエキストラとして出演した。しかし昭和30年、父・兵七が死去。落胆する母の姿を見て、「もっと働いて母を楽にする」と決心した七保子は、保険会社を辞めてナイトクラブのホステスとして働き始めた。赤坂にある日本有数の高級クラブだった「コパカバーナ」で働き始めると、七保子はすぐに評判に。稼いだお金で家計を助けると、八曾男を早稲田大学に入学させることもできた。学費も七保子が賄った。
帝国ホテルのロビーでコーヒーを飲んでいると、男性から声をかけられた七保子。部屋に案内されると、当時のインドネシア大統領のスカルノが座っていた。出会いから2か月後、七保子のもとに「インドネシアに来てほしい」という手紙がスカルノから届いた。昭和34年、19歳の七保子はインドネシアに渡ることを決心した。
小学校の頃のエピソードについて、デヴィ夫人は「正義感の強さや弱い者を助けたいというのは父親譲りだと思う」とコメント。またデヴィ夫人は、「外国人の富豪から求婚されていて、3カラット半くらいのダイヤモンドを頂いた」などと話した。
昭和34年9月、七保子は密かにインドネシアへ渡った。親族以外に事情を話せず、極秘での渡航だった。住まいはジャカルタ郊外の高級住宅街。七保子の渡航を手助けした桐島正也さんは当時インドネシアと取引していた商社マンで、スカルノ大統領とも親しくしていた。表向きは桐島さんの妻として、七保子はインドネシア入りしたという。物怖じしない七保子は、スカルノの周囲でも存在感を高めた。スカルノからもらった金で、七保子は仕送りを続ける。早稲田大学に入学した八曾男は、自転車部で活躍していた。八曾男は大学2年生の時、タンデムで全国2位になった。
インドネシアに渡って3年後、母・まさが65歳で死去した。さらにまさが亡くなってから2日後、八曾男は自ら命を絶った。その時の心境を、七保子は「デヴィ・スカルノ回想記」で「特に弟の自殺については死を防ぎえたのではないか。私が気負わずもっと優しくしていたら弟を救えたのではないかと、悔恨に打ちひしがれながらジャカルタに戻った」と綴っている。
母と弟の死から1ヶ月後の昭和37年3月、七保子はスカルノの第三夫人として正式に結婚。ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノと名乗り、インドネシアで生きていくことを決めた。この結婚は日本でも大々的に報じられた。そして、スカルノから与えられた宮殿に、デヴィ夫人は亡き弟の名前を取って「ヤソオ宮殿」と名付けた。現在は軍事博物館として使用されている。デヴィ夫人は外国からの要人をもてなす役割も担うようになり、スカルノと日本の政治家とも会った。
母と弟を突然亡くした当時を振り返るデヴィ夫人は、悪魔に身を売ってもいいと思ったと明かし、「神様なんて思わなかった。もう悪魔、悪魔」と語った。
昭和40年、のちに「9月30日事件」と呼ばれるクーデターが発生。この反乱はスカルノの部下・スハルト将軍によってすぐに鎮圧されたが、スハルト将軍は自ら権力を握ろうとスカルノの支持者たちを逮捕・殺害し始め、軍部を掌握。市民によるスカルノ退陣を訴えるデモが頻繁に行われるようになり、デヴィ夫人への風当たりも強まった。軟禁状態の中、昭和41年にデヴィ夫人はスハルト将軍をゴルフ場に誘い、事態の打開を図るものの、スハルト将軍は耳を貸さず、スカルノは幽閉されたという。スカルノとの子供を身ごもっていたデヴィ夫人は、日本に帰国。長女・カリナを出産したが、殺到するマスコミから逃れるためフランスへ移り住んだ。そして3年後、スカルノ危篤の一報を受けたデヴィ夫人は、入国を禁じられていたインドネシアの空港に無理やり降り立ち、スカルノと再開したという。その翌日、スカルノは69歳で死去した。
デヴィ・スカルノは「自分の先祖がわかってうれしい」と語り、今田耕司は「夫人の中にも(ルーツの)侍がいるような感じがする」とコメントした。
インドネシアの人々は、今もデヴィ夫人のことをよく覚えているという。そして、スカルノの第一夫人の娘・ラハマワティさんは「これからも美しく、そして長生きできますように。これからもあなたとのいい関係を続けたい」と語った。平成16年に生活の拠点を日本に移したデヴィ夫人は、タレント活動を始めた。これまでデヴィ夫人と数多く共演している出川哲朗さんは「世界最強の78歳じゃないか。毎日をパワフルに生きている」と語った。小学校の同級生も、活躍するデヴィ夫人が自慢だという。

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